更級日記にみる物語への憧憬と家族:父との旅、夫との死別の中で
「更級日記」は、平安時代中期に生きた菅原孝標女が、自身の波乱に満ちた生涯を振り返って書き記した回想録です。幼少期から晩年に至るまでの出来事が綴られていますが、その根底には、主人公の「物語への憧憬」という強い内面的な欲求と、それを巡る家族との関わりが重要なテーマとして流れています。
この記事では、「更級日記」に見られる家族の絆や、あるいは主人公の個人的な内面と家族の関係性から生まれる葛藤に焦点を当て、その描写が持つ意味や背景を解説し、教育的な視点から考察します。特に、主人公の人生を彩る父との関係性や、物語世界への傾倒、そして夫との死別後に見せる母としての姿に注目してまいります。
父との旅と物語への憧憬
物語は、主人公が東国(上総)の任地から京へ上る13歳頃から始まります。父である菅原孝標の任期を終え、京へ戻る旅は、それまでの単調な生活から解放され、物語の世界への憧れを募らせていた主人公にとって、新たな世界への入り口でもありました。
旅の途中、父は娘のささやかな願いを叶えようと、物語を探し与えようとします。これは、当時の貴族社会における父娘の一般的な関係性とは異なる、比較的親密で、娘の気持ちに寄り添う父の姿として捉えることもできます。一方で、主人公の物語への異常なまでの熱中は、現実の社会生活(特に結婚や将来)から目を逸らしているようにも見え、父や姉から諫められる場面が示唆されています(直接的な厳しい叱責の描写は少ないですが、周囲の反応や、自身の反省として語られています)。
この父との関係性や、物語への熱中という描写からは、当時の上流・中流貴族の家庭における教育観や、女性が期待される役割、そして個人の内面的な欲求との間のギャップが読み取れます。父は娘の「物語」という趣味に理解を示しつつも、同時に現実的な将来を案じていたのかもしれません。娘にとっては、父の庇護のもと、一時的に現実から離れて物語の世界に没入できた、ある種の猶予期間であったとも言えます。
夫との死別、そして母としての生
物語が進み、主人公は結婚し、二人の子を設けます。しかし、夫である橘俊通が突然病没するという悲劇に見舞われます。この場面における描写は非常に切実です。夫の死を受け入れられない嘆き、残された幼い子供たちを抱えて生きる途方に暮れる様子が、率直な筆致で綴られています。
夫との死別は、それまで父や夫に庇護されて生きてきた女性にとって、自立して生きていかなければならない現実を突きつけるものでした。この時期の描写からは、物語世界への憧憬から一転、現実の厳しさと向き合い、母として子を守り育てていこうとする強い意志と、孤独の中で生きる女性の痛みが伝わってきます。
この場面は、「更級日記」における家族関係の大きな転換点です。それまでの父や夫との関係から、子との関係、そして自立した個としての「私」という視点が色濃く出てきます。喪失の悲しみの中にも、母として生きる力強い姿が描かれており、人間の普遍的な感情や生きる力を感じさせる部分です。
考察と教育的示唆
「更級日記」に描かれる家族の物語は、現代の私たちにも通じる普遍的な要素と、当時の時代背景に根差した特殊な要素の両方を含んでいます。
普遍的な要素としては、親子の情愛、夫婦の絆と喪失、そして母子の絆といった人間関係の基本的なあり方が挙げられます。特に、夫を亡くし、一人で子を育てていく女性の姿は、時代を超えて共感を呼び起こすでしょう。
一方、特殊な要素としては、主人公の「物語への憧憬」という個人的な内面が、家族との関係性の中でどのように描かれているかという点があります。物語世界に没入する主人公の姿は、現代の趣味や嗜好に熱中する若者と重ねて考えることもできますが、当時の女性に期待された生き方や、物語が持つ意味合い(単なる娯楽ではなく、教養や現実逃避、あるいは一種の現実への向き合い方)を理解することで、より深く読み解くことができます。これは、個人の内面と、家族や社会との関係性という、現代社会にも通じる複雑なテーマを考えるきっかけとなります。
授業でこれらの場面を扱う際には、生徒に対して「当時の女性が物語を読むことについて、家族はどのように考えていたと思いますか?」「主人公の「物語への熱中」は、現代の何に似ていると思いますか?また、どこが違いますか?」「夫を亡くした後の主人公の心情を、あなたならどう表現しますか?」といった問いかけを行うことで、生徒自身の経験や現代の価値観と古典の世界を結びつけ、多角的な視点から作品を読み解く力を養うことができるでしょう。また、当時の社会制度や家族観(例えば、婿取り婚や女性の財産権など)にも触れることで、歴史的な背景理解を深めることも重要です。
まとめ
「更級日記」は、一人の女性の生涯を通して、家族との関わり、そして個人の内面的な世界と現実の生活との間の揺れ動きを克明に描いた作品です。父との旅に始まり、物語世界への憧れ、結婚、夫との死別、そして母として生きる姿。これらの出来事は、当時の社会制度や慣習の中で形作られた家族関係の特殊性を持ちながらも、親子の情愛、喪失の悲しみ、そして生きる力といった人間の普遍的な感情を描き出しています。
この作品における家族の物語は、私たちに、時代を超えて変わらない人間の絆の尊さや、個人の内面と現実の生活との間の葛藤、そして困難な状況にあっても生き抜こうとする人間の強さについて深く考えさせてくれます。高校生が「更級日記」を読むことは、古典文学を通して、自分自身の内面や、現代社会における家族のあり方、そして人間関係の複雑さについて学ぶ貴重な機会となるはずです。