万葉集にみる家族の離別と絆:旅や防人の歌に込められた思い
導入:多様な人々の歌にみる家族の情景
『万葉集』は、奈良時代を中心に編まれた日本最古の歌集であり、天皇、貴族から下級官人、農民まで、様々な階層の人々が詠んだ歌が収められています。その多様性こそが『万葉集』の大きな魅力の一つですが、そこに共通して強く歌い上げられているテーマの一つに「家族」があります。
特に、当時の人々にとって避けることのできなかった「離別」にまつわる歌には、家族への深い情愛や再会を願う切実な思いが込められています。この記事では、『万葉集』の中から、旅立つ者や見送る者、遠く離れた地に赴いた者の歌に焦点を当て、当時の家族の絆や、離別がもたらす軋轢、そしてそこに読み取れる普遍的な人間の感情について解説と考察を行います。
具体的な場面の解説:羈旅と防人の歌を中心に
『万葉集』における家族の離別は、主に「羈旅(きりょ)」、すなわち旅や任地への赴任と、「防人(さきもり)」、すなわち辺境警備のための徴兵という形で描かれています。これらの状況下で詠まれた歌には、家族間の様々な感情が克明に映し出されています。
羈旅の歌:遠ざかる家、残される家族
任地への赴任や外交使節として旅立つ男性、そしてそれを見送る妻や子、親の歌からは、別れの辛さや互いの安否を気遣う心が伝わってきます。
例えば、万葉集巻七に収められた作者不明の歌(1203番歌)は、旅立つ人が家のあたりを振り返る心情を詠んでいます。
あしひきの 山下水(やましたみづ)の さやかにも 見えずなるかも 家のあたり見れば
(あしひきの山のふもとを流れる川の水のように、はっきりと見えなくなってしまったことよ、家のあたりを見ようとしても)
この歌の前に、紀女郎という女性が同じような内容の歌を詠んでおり、旅立つ者が見えなくなるまで家や家族のいる方角を振り返る情景が目に浮かびます。当時の旅は現代とは比較にならないほど困難で、一度別れるといつ再会できるか分からない、あるいは再会できない可能性すらありました。このような背景があるからこそ、遠ざかる家への一瞥に、残してきた家族への強い思いが凝縮されているのです。これは、物理的な距離が家族の絆を試練にかける様子を描写しています。
防人の歌:引き裂かれる親子の情愛
さらに深刻な離別を描くのが「防人の歌」です。巻二十に集中して収められているこれらの歌は、東国から九州北部の防衛のために徴兵された防人や、その家族が詠んだものです。任期は三年と長く、危険も伴うため、家族との別れは死別にも近いものでした。
豊前国(現在の福岡県)に遣わされた防人、丈部稲麻呂(はせつかべのいなまろ)の歌(4323番歌)は、故郷の大和を顧みまいとする決意と悲しみを詠んでいます。
今日よりは 顧みられず 大和辺は 背向きてて罷らな 沖つ島辺に
(今日からはもう振り返るまい、大和のあたりを。背を向けて出発しよう、あの遠い島の方へ)
故郷を振り返れば、そこに家族の姿を思い出し、未練が断ち切れなくなる。だからこそ、あえて背を向けようとする、その決意の裏には、どれほどの悲しみがあったでしょうか。
そして、その父の歌(4324番歌)はさらに胸を打ちます。
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多に思ひ出づるかも 子の事
(元気な馬を山野に放して、捕まえようとしてもなかなか捕まらないように、しきりに思い出されることだよ、我が子のことが)
元気いっぱいの馬が捕まえがたいように、一度旅立ってしまった子のことが、あれこれと際限なく思い出されてならないという親心。当時の防人制度は、一家の働き手を奪い、家族に大きな負担と悲しみをもたらすものでした。これらの歌は、過酷な社会制度の中で引き裂かれる家族の姿と、それでも断ち切れない親子の情愛を鮮やかに描き出しています。
考察と教育的示唆:普遍的な感情と時代背景の理解
これらの万葉集の歌から読み取れる家族の姿は、現代の私たちにも通じる普遍的な感情を示唆しています。旅立つ家族を心配する気持ち、離れて暮らす家族の安否を気遣う気持ち、再会を願う気持ちなど、家族を思う心そのものは時代を超えて変わりません。これは、家族という関係性の根源にある愛情や絆が、人間の普遍的な感情であることを教えてくれます。
一方で、当時の社会制度や慣習が家族関係に与える影響も無視できません。長期にわたる過酷な旅や、徴兵による強制的な離別は、現代の家族の形とは大きく異なります。これらの歌を読み解く際には、当時の交通や通信の不便さ、防人制度といった社会背景を理解することが不可欠です。描写の持つ意味を深掘りするためには、歌そのものだけでなく、歌が詠まれた時代の空気や人々の生活を知る必要があります。
これらの歌を授業で扱う際には、以下のような教育的な切り口や生徒への問いかけが考えられます。
- 感情の普遍性: 「この歌を詠んだ人は、どんな気持ちだったと思いますか?」「この歌に詠まれている感情は、現代の私たちにも理解できますか?」などと問いかけ、時代を超えた人間の普遍的な感情について考えさせる。
- 時代背景の理解: 「なぜ、このように長い間家族と離れなければならなかったのでしょう?」「当時の社会制度について調べてみましょう」など、歴史や社会科と関連付けて、当時の生活や制度が人々の感情や家族関係にどのように影響したかを考察させる。
- 文学表現の工夫: 「この歌では、どのような言葉や比喩(例:山の水、赤駒)を使って感情を表していますか?」「なぜ、このような表現を選んだのでしょう?」など、文学作品の表現技法に注目させ、作者の意図や感情の込め方を分析させる。
- 現代との比較: 「現代社会で、家族が長く離れて暮らすのはどのような場合があるでしょう?」「当時の離別と現代の離別では、何が同じで何が違うでしょう?」など、現代の家族の形や価値観と比較し、時代による家族観の変化について議論させる。
- 共感と想像力: 歌の状況になりきって、短歌や日記を創作させるなど、登場人物の気持ちに寄り添い、想像力を働かせる活動を取り入れる。
これらの歌は、単なる古文の読解を超えて、当時の人々の生きた感情や社会のあり方を知り、ひいては人間関係の本質や家族という普遍的なテーマについて深く考えるきっかけを与えてくれます。
まとめ:万葉集が語る家族の物語
『万葉集』に収められた旅や防人の歌は、遠く離れて暮らす家族への切実な思いを率直に詠み上げた、感動的な家族の物語です。当時の過酷な社会状況の中で、人々は離別の悲しみに耐えながらも、家族への深い情愛や絆を失うことはありませんでした。
これらの歌を読み解くことは、奈良時代の人々がどのような感情を抱き、どのように家族と向き合っていたのかを理解する手助けとなります。そして、そこに描かれた家族を思う普遍的な気持ちは、現代に生きる私たち自身の家族観や人間関係について改めて問い直す機会を与えてくれるでしょう。『万葉集』の家族の物語は、時代を超えて多くの示唆に富むメッセージを私たちに伝え続けているのです。