古典にみる家族の物語

今昔物語集『鬼取子』の悲劇:鬼に攫われた子と親の情愛

Tags: 今昔物語集, 説話, 親子の情愛, 悲劇, 喪失と再会

古典にみる家族の物語:『今昔物語集』「鬼取子」にみる親子の情愛

『今昔物語集』は、平安時代末期に成立したと考えられている、日本最大級の説話集です。仏教説話と世俗説話を合わせて千話以上を収録しており、そこには当時の人々の多様な生き様や価値観、そして様々な人間関係が克明に描かれています。これらの説話の中には、家族の絆や、あるいは苛烈な軋轢を描いた物語も数多く見られます。

この記事では、『今昔物語集』の中から、特に親子の情愛に焦点を当てた一編、巻第二十九の第四話に収められた「陸奥国石上郡之家、鬼取子語」(以下、「鬼取子」)を取り上げます。この物語は、鬼によって引き裂かれた親子の悲劇を通して、喪失の痛み、そして再会という出来事がもたらす複雑な感情、普遍的な親の情愛を描き出しています。

鬼に攫われた我が子:絶望と再会が描くもの

「鬼取子」は、陸奥国石上郡に住むある夫婦の物語です。ある夜、この夫婦の幼い子が寝ている間に、突如として鬼が現れ、子を攫ってしまいます。親は驚愕し、必死に鬼の後を追いかけますが、夜の闇と鬼の速さに阻まれ、我が子を連れ去られてしまいます。この場面は、突然訪れる喪失の恐怖と、それに対する親の無力な絶望感を鮮烈に描写しています。当時の社会では、夜間の治安の悪さや異形の存在への畏れが現実的な脅威として認識されており、この物語はそうした人々の不安を映し出しているとも言えます。

数年後、子を失った夫婦が深い悲しみの中で暮らす中、旅の者から驚くべき情報がもたらされます。それは、遠い東の山中で、人間に攫われて育ったという、鬼の形をした子供を見た、というものでした。その子供が、失った我が子の面影を持っていることを期待し、夫婦、特に母は、その子を探しに遠方まで旅立ちます。

そして遂に、探し求めた子供と再会する場面が訪れます。しかし、再会した子は、人間の子供とは似ても似つかない、角が生え、肌が黒く、鬼のような姿に変わっていました。子は親の姿を見て、かつて人間だった頃の記憶をかすかに呼び起こしたのか、あるいは本能的に親を慕ったのか、人語で親に話しかけ、寄り添おうとします。しかし、親は我が子の変わり果てた姿に恐怖を感じ、それが自分の子であると確信しながらも、受け入れることができません。かつての可愛らしい姿ではなく、異形となってしまった我が子に対する親の戸惑い、恐怖、そしてそれでも捨てきれない情愛という、複雑な感情が交錯する悲劇的な場面です。結局、親は鬼の姿となった子を連れ帰ることができず、再び別れることになってしまいます。

この物語は、単に鬼に子を攫われるというファンタジックな出来事を描いているだけでなく、親が我が子を思う普遍的な愛情、そしてその愛情が、子の物理的・精神的な変化や異形化によって揺さぶられる様を描いています。当時の社会背景としては、異界や鬼といった存在が人々の生活圏の近くにいるという世界観、そして親子の情愛を尊ぶ倫理観が根底にあります。鬼の存在は、予測不能な災難や、人間の理解を超えた理不尽の象徴とも捉えられます。

物語から読み解く家族の絆と教育的示唆

「鬼取子」の物語から読み取れる家族関係の本質は、親が子を思う情愛の深さと、それが置かれる極限状況です。鬼という異質な存在によって子が異形化するという特殊な状況設定ではありますが、我が子の変化に対する親の戸惑いや、それを受け入れられるかどうかの葛藤は、形を変えながらも現代の親子関係にも通じる普遍的なテーマを含んでいると言えます。例えば、子が親の価値観や期待から大きく外れた選択をした場合、あるいは子が心身に変調を来した場合など、親は「かつての我が子」ではない姿を目の当たりにし、愛情とは別の感情(戸惑い、失望、不安)を抱くことがあります。この物語は、そうした親の複雑な心情の根源にあるものを問いかけているかのようです。

この物語を授業で扱う際には、生徒に人間の普遍的な感情について考えさせる良い機会となります。突然の喪失に対する絶望、そして奇跡的な再会にもかかわらず、子の変わり果てた姿に戸惑う親の気持ちは、生徒にとって想像し難いかもしれませんが、それでも「親が子を思う気持ち」という核となる感情については共感を得られる可能性があります。

授業の切り口としては、以下のような問いかけが考えられます。

これらの問いを通じて、生徒は物語に描かれた親子の情愛だけでなく、人間の「異質なもの」に対する受容と拒絶、そして悲劇的な状況下での人間の心の動きについて深く考えることができるでしょう。古典文学が、時代背景は異なれど、人間の普遍的な感情や葛藤を描いていることを実感する一助となるはずです。

まとめ:時代を超えて問いかける親子の物語

『今昔物語集』に収められた「鬼取子」の説話は、鬼という超常的な存在によって引き裂かれ、そして悲劇的な再会を果たした親子の物語です。この物語は、子を思う親の根源的な情愛を描くと同時に、その愛情が、子の異形化という極限状況下で試される様を描き出しています。

この一編は、単なる奇談としてではなく、喪失の悲しみ、そして再会における喜びと恐怖、受容と拒絶といった、人間の普遍的な感情の機微を描いた物語として、現代に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。古典文学に触れることは、異なる時代の価値観や世界観を知るだけでなく、このように時代を超えて変わらない人間の本質、家族という最小単位の中で育まれる、あるいは引き裂かれる絆について考える機会を提供してくれるのです。